横浜ベイスターズの「暗黒時代」(よこはまベイスターズのあんこくじだい)は、日本プロ野球のセントラル・リーグに所属する横浜ベイスターズ(現:横浜DeNAベイスターズ)が、2002年から2015年までの14シーズン中、13回のBクラスうち10回のリーグ最下位となった低迷期を指す俗称である。
概要
「暗黒時代」の14シーズンのうち、Aクラス入り(上位3位入賞)を果たしたのは2005年(3位)の1回のみであり、Bクラスは13回、そのうち10回は最下位という結果に終わっている。最下位のシーズンは5位球団とも大きくゲーム差が離れていることが多く、特に2003年には5位広島とも22.5ゲーム差にも及んでいた。またこの期間、Aクラス復帰した2016年含め、勝率が5割を超えたシーズンはなかった。
沿革
「暗黒時代」に至るまでの経緯(1998年〜2001年)
1998年(優勝)
1998年の横浜ベイスターズは、権藤博の指揮下で、阪神との開幕戦を3連勝、スタートダッシュを決めるかと思われたが波に乗りきれず、5月終了時点では貯金3の3位。しかし、6月後半から1番石井、2番・波留、3番・鈴木、4番・ローズ、5番・駒田と言った選手を主力とする強力打線「マシンガン打線」が爆発するようになり、6月16日の阪神戦から8連勝して首位に立った。8月後半になると負けが続く日も出てきたが、10月8日の阪神戦(甲子園)に勝利して38年ぶりのセ・リーグ優勝を飾った。また、絶対的守護神の佐々木主浩は、「ハマの大魔神」と呼ばれ、この言葉はこの年の流行語大賞年間大賞を受賞している。さらに同年の日本シリーズで西武を破り(4勝2敗)、日本一を達成している。
1999年(3位)
38年ぶりのセ・リーグ優勝と日本一を達成したチームは、球団史上初の連覇達成を期待されたが、4月9日の巨人戦で初勝利するまでは、開幕6連敗を喫する。それでも5月以降は巻き返し、7月には3位に浮上し、打線は前年から本塁打数が40本増加する。しかし、いくら打線が好調でも先発陣が打ちこまれる試合は相変わらず続き、優勝した中日に10ゲーム差を付けられて、3位でシーズンを終えた。シーズン終了後、ロッテを自由契約になった小宮山悟を獲得。一方で佐々木がFA権の行使を宣言し、MLBのシアトル・マリナーズへ移籍。
2000年(3位)
6月までは混戦模様で一度は首位に立ち、2年ぶりの優勝が期待された。6月以降は巨人が独走すると中日との2位争いに終始したが、最後は2年連続の3位でシーズンを終了。チームは波留敏夫がケガで戦列を離れるなどの誤算続きで終えた。投手陣はマリナーズへ移籍した佐々木の抜けた穴をルーキーの木塚敦志がカバーし、チーム防御率は前年の4.44から3.92と、やや改善されてまで持ち直したが、被本塁打も多く目立った。この年を最後に権藤監督が勇退し、西武黄金時代の名将・森祇晶が新監督に就任する。
2001年(3位)
森祇晶の指揮の下、機動力とサインプレー重視の野球でチーム再建を図り、3年ぶりの優勝を狙ったが、それまでの権藤の放任野球からの転換に選手が慣れず、負けが先行する。それでもチームは6月に12勝9敗と勝ち越すと、7月には12勝4敗1分の貯金8で終了。8月以降は中日がAクラス争いから脱落し、広島との一騎打ちとなる。この年のみ順位が勝利数優先のルールであり、最終的な勝ち星が広島より1つ多かったため、勝率は4位の広島より7厘低いも関わらず、何とか3位に滑り込むことに成功した。ルールの恩恵も受けて5年連続のAクラス、3年連続3位となった。しかし、シーズンオフに正捕手の谷繁元信が森監督との確執から中日にFA移籍。この谷繁の移籍がきっかけでベイスターズの長きにわたる暗黒時代が始まった。
※このシーズンは勝利数優先で順位を決定。
*順位は勝率に関係なく勝利数順で決定
「暗黒時代」の横浜ベイスターズ(2002年〜2011年)
2002年(6位)
シーズン前に親会社がマルハからTBSへと変更。1998年以来の優勝を目指すチームは、移籍した谷繁の代わりに中日から中村武志を獲得。しかし、シーズンが始まると開幕からいきなり5連敗、さらに5月には13連敗を喫し、セ・リーグでは1965年のサンケイ、1980年の中日、1985年のヤクルト、1991年の阪神に続いて全日程で最下位に終わった。シーズン全体でもこの年優勝した巨人に35.5ゲーム、5位の広島にも14.5ゲーム差をつけられてのダントツ最下位だった。チーム打率.240、本塁打97本(本塁打数5位阪神が122本)、チーム得点472は全てリーグ最下位。チーム防御率も4.09でリーグ5位と投打ともに低迷。シーズン終盤に森監督は解任され、以降、シーズン終了まで黒江透修ヘッドコーチが監督代行を務めた。結局、1994年以来8年ぶりに単独最下位へと転落。オフにはタイロン・ウッズなどの大型補強を敢行した。
2003年(6位)
山下大輔がこの年から監督に就任。ヘッドコーチに江藤省三、投手コーチに小谷正勝、バッテリーコーチに福田功が就任。ダイエーからFA宣言していた若田部健一やスティーブ・コックス、タイロン・ウッズ、トレードでデニー友利、中嶋聡、ドラフトで村田修一を獲得する大型補強を敢行し、「大ちゃんス打線」と銘打った攻撃優先オーダーで開幕を迎えた。開幕戦では阪神に快勝したものの、投打が噛み合わず4月末時点で5勝20敗の勝率2割。補強した選手の殆どが戦力にならず、4月25日以降は二度と最下位から抜け出せず、見せ場もなくシーズン終了。このシーズンは星野仙一率いる阪神が首位を独走する中、横浜は対阪神戦を6勝22敗と大きく負け越し、阪神とは対照的に最下位独走となった。5位広島とのゲーム差も22.5ゲーム差も離された。オフには遠藤一彦、森繁和両投手コーチが投手陣崩壊の責任を取り辞任。金銭トレードで中嶋聡を日本ハムへ、竹下慎太郎を阪神へ放出するなど4件のトレードを敢行した。
2004年(6位)
6年前の日本一の立役者だった大魔神・佐々木主浩をシアトル・マリナーズから獲得、石井琢朗、鈴木尚典ら1998年のメンバーが多く残っていたことから6年ぶりの優勝が期待された。しかし、4月は首位で終えるものの、5月に入ってからは大きく負け越し、広島との最下位争いに敗れ、3年連続最下位でフィニッシュ。前年から借金を49から17へと大幅に減らしたものの、優勝した中日に20ゲーム、3位の巨人に12ゲーム差をつけられた。チームは、内川聖一が前年から出場試合数を増やして17本塁打を放つなど最後まで打線が好調、チーム打率は.279でリーグトップと前年から大幅に改善した。契約満了に伴い山下はこの年限りで辞任、代わって牛島和彦が監督に就任した。オフにこの年本塁打王のウッズが中日に移籍。この年は一場事件で砂原オーナーが辞任に追い込まれる、球界再編問題で大阪近鉄バファローズがオリックス・ブルーウェーブとの合併で消滅し、オリックス・バファローズになるほか、新規参入として東北楽天ゴールデンイーグルスが誕生するなど激動の年でもあった。
- プロ野球再編問題を巡るストライキにより、本来より2試合少ない138試合。
2005年(3位)
中日との開幕戦を負け越すも、5月の交流戦以降、徐々に調子を上げていき、ヤクルトとのAクラス争いを展開。最終的に2001年以来となるシーズン勝ち越しこそ逃したものの3位に滑り込み、4年ぶりにAクラスでシーズンを終えた。結果的には横浜ベイスターズ(TBS時代)としてのAクラスは最初で最後であった。これ以降は2016年にAクラス入りするまで10年連続Bクラスの低迷期に入る。カード別成績では前年勝ち越した阪神に6勝13敗3分、中日にも8勝13敗1分と負け越したが、リーグ5位と低迷する巨人に対しては16勝6敗と大幅に勝ち越すなど意地を見せた。なお、この年からセ・パ交流戦が始まり、初年度は19勝17敗と勝ち越し、順位も6位とまずまずの結果となった。
2006年(6位)
牛島体制2年目を迎えたチームだったが、大きな補強は無かった。開幕からいきなり6連敗を喫するなど、4月を7勝15敗2分で終え、早くも最下位に転落。5月に入ってからも低迷は止まらず。3度も4連敗を記録するなど8勝18敗で負け越し、借金は最大の18まで膨らんだ。その後6月に復調の兆しを見せたが、8月の最初の試合で敗れると、それ以降最下位が定位置となる。結局、2004年以来2年ぶりの最下位に転落。牛島監督は最下位転落の責任を取ってオフに辞任。後任には大矢明彦が10年ぶりに監督に復帰。一方で内川聖一が初の100試合出場(124試合出場、打率.286)を達成し、村田修一が打率2割6分台ながらも30本塁打、100打点以上でチームの4番に成長。さらに4年目の吉村裕基がチーム2位の26本塁打を記録するなど若手の成長が目立ったシーズンでもあった。シーズンオフに、多村仁志と寺原隼人の交換トレードを敢行。
- 同率の場合は前年の順位で上位のチームが上位にランクされる
2007年(4位)
1996年から2年間監督を務めた大矢明彦が10年ぶりにチームの監督に復帰。大矢新監督は1998年の優勝メンバーが高齢化している現状を鑑み、就任後に巨人から仁志敏久を、ソフトバンクから寺原隼人をそれぞれ交換トレードで獲得してシーズンに臨んだ。前年シーズン2位の阪神が開幕から不調だったこともあり、一時は2位に立ったが、後半戦は投打ともに力尽き、CS争いから脱落となり、Bクラス確定。借金1、勝率は.497であと一歩で5割であった。交流戦で3位となるなど来シーズンへの期待が持てるシーズンであった。
- 同率の場合は前年の順位で上位のチームが上位にランクされる
2008年(6位)
「徐々にチーム力が向上してきたので、優勝は難しいが今年こそCSを目指す」と大矢監督は高らかに宣言。前年惜しくも4位ながらも巨人、中日などに食らいついたことから開幕前はAクラス候補に挙げられていた。しかし阪神との開幕戦で3連敗を喫するなど4月を7勝18敗で大きく負け越し、早くも最下位に転落。この時点では5位の広島と3.5ゲーム差だったが、5月以降も黒星を重ね、5月26日時点で自力優勝が消滅。シーズン終盤には球団記録タイ(1回目は1955年)の14連敗を喫するなど、最終的に連覇を果たした巨人に36.5ゲーム、そして5位のヤクルトにも19ゲーム差をつけられ、2年ぶりの最下位へと逆戻り。さらに2003年以来5年ぶりとなるリーグワーストの90敗以上(最終的に48勝94敗2分)という不名誉であった(この年から2010年シーズンにかけて毎シーズン90敗以上を達成する)。その一方で、打撃陣は主砲の村田修一が46本塁打で2年連続となる本塁打王を獲得、さらに内川聖一が.378の高打率で首位打者を獲得するなど、打線は好調であった。
- 同率の場合は前年の順位で上位のチームが上位にランクされる
2009年(6位)
前年のシーズンオフにFA宣言した三浦大輔の残留に成功したチームは、OBで野球解説者の駒田徳広を一軍打撃コーチとして9年ぶりに古巣に復帰させるなど、チームスタッフを一新する。しかし、中日・巨人との開幕6連戦を6連敗するなど最悪のスタートを切った。4月を8勝14敗と負け越し、5月に入っても成績不振から脱出できず、大矢監督はついに休養。後を受けた田代監督代行でもチーム再建は難しく、チームは3連覇の巨人に42.5ゲーム、5位の広島に16ゲームもつけられ、2年連続の最下位となった。後任監督には、尾花高夫が就任。
- 同率の場合は前年の順位で上位のチームが上位にランクされる
2010年(6位)
4月こそ借金3と前年より健闘したものの、その後は投手陣が崩壊し、交流戦では最下位に転落。早々に優勝戦線はおろか、クライマックスシリーズ争いからも脱落。その後も最下位が定位置となり、優勝した中日に32ゲーム、5位の広島に10.5ゲーム差をつけられ、防御率も4.88となり、3年連続ダントツ最下位でシーズン終了。打撃陣は内川聖一がチーム首位打者、主砲の村田修一がチーム本塁打王、前年レギュラー定着の石川雄洋がチーム最多盗塁を記録するなど個人の活躍は目立ったが、チーム本塁打数はこの年3位の巨人に100本以上も差をつけられた。投手コーチの野村弘樹が退団。シーズン終盤以降には住生活グループへの買収交渉が話題になったが、最終的に交渉は失敗し、翌年もTBSホールディングスが球団保有を継続することになった。
- 同率の場合は前年の順位で上位のチームが上位にランクされる
2011年(6位)
前年シーズンオフに内川聖一がFA権を行使し、ソフトバンクへ移籍。また、寺原をトレードでオリックスへ放出。その一方で、FAで森本稀哲を、楽天を自由契約となった中村紀洋を獲得するなど主にパ・リーグ球団から選手を補強。シーズン前には加持隆雄球団社長が「これで変わらなかったら、本当にダメですから。僕はチームを変えるためならこの命をかけてもいい。もし負けたら、ベイブリッジから飛び降りる覚悟ですよ」と発言し、横浜国際港の関係者から「船が航行できなくなって迷惑だからやめてくれ」と注意される。本来、3月25日開幕の予定であったが、東日本大震災の影響で4月12日にずれ込んだ。4月は開幕カードの中日3連戦に勝ち越すなど5勝10敗の借金5と善戦するも、5月以降は負け越しが続き、そこから浮上することなく最終的に4年連続最下位でシーズンを終え、10月18日には本拠地・横浜スタジアムで中日の胴上げを許した。打撃陣は楽天から金銭トレードで獲得した渡辺直人が守備でチームに貢献したものの、チーム本塁打は2002年以来9年ぶりに100を割り、チーム打率も.239でリーグ5位と低迷した。シーズン終了後、楽天などの反対があったものの、DeNAに球団を売却したことにより球団名も「横浜DeNAベイスターズ」と改称。TBSホールディングス時代の横浜は10年間でAクラス1回のみという結果に終わった。オフに尾花は解任され、後任監督には、中畑清が就任。
「暗黒時代」脱出への道(2012年〜2015年)
2012年(6位)
親会社がTBSホールディングスからDeNAへと変わり、球団名も「横浜DeNAベイスターズ」へと変更。村田修一がFAで巨人へ移籍。巨人からアレックス・ラミレス、同じく巨人からFA宣言を行使した鶴岡一成、中日からFA宣言した小池正晃を獲得する。阪神との開幕戦を1勝1分1敗とまずまずの出だしであったが、続く中日・広島とのカードで6連敗。特に4月6日の広島戦では、前田健太にノーヒットノーランを許した上、46回連続無得点で1955年の大洋時代に記録した球団ワースト記録の39イニング連続無得点を57年ぶりに更新するなど不名誉な記録を樹立してしまう。それでも15日の巨人戦では、延長11回に中村紀洋が逆転サヨナラ2ランを放つなど意地を見せた。しかし、チームは戦力不足で前年と同じ借金39で5年連続最下位となった。打撃陣は、ラミレスが19本塁打、中村が11本塁打など復調の兆しを見せた。また、この年から徐々に客足が戻ってくるようになった。
2013年(5位)
開幕前、中日からホルヘ・ソーサ、トニ・ブランコ、エンジェルベルト・ソトの3人を獲得。前年までは、Aクラス争いから早い段階で脱落していたDeNAであったが、この年は8月終了時点で3位広島に3.5ゲーム差とシーズンの終盤までクライマックスシリーズ争いに加わった。しかし、広島が9月以降に貯金を7つ重ねたのに対して、DeNAも貯金を重ねたが2つ止まり。結局、9月25日、広島が対中日戦(ナゴヤドーム)に勝利したことで広島のAクラスが確定。DeNAはAクラスに届かず、クライマックスシリーズへの出場も逃してしまった。しかし、6年ぶりとなる最下位脱出を果たすなど、ついに暗黒時代脱出への光が見え始めた。また、5月10日の巨人戦(横浜スタジアム)では、7回表終了時点で10-3と大きくリードを許した状況から、一気に6点を取ると、9回裏の攻撃で多村仁志が逆転サヨナラ3ランを放つなどあきらめない姿勢を見せた。戦力としては、ブランコを中心とした打線がリーグ1位の得点力を発揮したのに対して、投手陣はチーム防御率4.50とリーグワーストと低迷した。
2014年(5位)
開幕前にコロラド・ロッキーズを自由契約となった元巨人の高橋尚成、阪神からFA宣言をした久保康友を獲得したが、 久保の人的補償として正捕手の鶴岡一成が阪神に移籍した。
4月に7勝18敗と大きく負け越し、開幕ダッシュに失敗してしまったものの、5月13日にユリエスキ・グリエルを獲得。5月に井納翔一、6月と9月に山口俊、8月に三浦大輔と球団史上初めて1シーズン3度(最終的には1シーズン4度に更新)の月間MVPを獲得し、5月から8月にかけて勝率を5割以上キープ。9月までクライマックスシリーズ進出の可能性を残していたが、9月27日にAクラス入りの可能性が消滅し、10月6日の対ヤクルト戦(神宮)に敗れ、9年連続Bクラスと2年連続5位が決定した。ただ、主催試合のチケットの売り上げが前年と比べて119%も上昇していることなど、チームが徐々に変化してきていた。
2015年(6位)
好不調の波が大きく、4月に7連敗を喫した後に快進撃を見せて首位浮上。しかし、交流戦で3勝14敗1分と大きく負け越し、勝率も.176と交流戦歴代ワースト記録を樹立。後半に入ると2度の4連敗で後退し、その後も投手不足と打線の不調が重なり負けが込むなどジェットコースターのような戦況であった。最後は最下位で10年連続のBクラス。打撃陣は、筒香が24本塁打93打点、梶谷が13本塁打28盗塁と長打力を発揮した。ドラフト3位倉本寿彦はショートの定位置を掴んだが、一番石川が途中離脱するなど中軸以外は流動的だった。投手陣は久保が8勝、井納は5勝止まりで山口・三嶋も安定感を欠いた。この年限りで中畑は退任。後任には、アレックス・ラミレスが就任。
「暗黒時代」の終焉(2016年)
4月は投打にわたり戦力不足で9勝18敗と大きく負け越すなど、不安な立ち上がりであったが、5月に入ると石田健大、新人の今永昇太が揃って月間4戦全勝を挙げて活躍するなど、5月3日時点で11あった借金を5月28日には完済した。前年は悲惨な結果で終わった鬼門の交流戦には負け越したものの、Aクラスで前半戦を折り返し、7月19日から22日にかけて筒香嘉智が月間16本塁打の歴代日本人最多記録を樹立。後半戦は4位阪神に0.5差まで詰められたが、最後までAクラスを守り抜き、9月19日、対広島戦にて勝利、2005年以来11年ぶりのAクラスが確定し、チーム初のクライマックスシリーズ進出を決めた。最終結果は69勝71敗3分と負けが先行したが、TBSホールディングス時代からの長きにわたる暗黒時代に終止符が打たれた。クライマックスシリーズでは2位の巨人と対戦(東京ドーム)し、2勝1敗でファイナルステージ進出を決めてこの年首位独走の広島と対戦したが、1勝4敗で敗退した。なお横浜スタジアムではクライマックスシリーズ対広島戦の模様がパブリックビューイングで実施され、敗れはしたもののスタジアムに約3万7千人が駆け付け大声援を送るなど完全に客足を取り戻した。
- クライマックスシリーズ対戦成績
「暗黒時代」終焉以降の横浜DeNAベイスターズ(2016年〜)
Aクラス入りを果たした2016年のクライマックスシリーズではファーストステージ(対巨人)には2勝1敗で勝利したものの、ファイナルステージでは、対戦相手の広島に1勝4敗で敗れ、日本シリーズ出場を逃した。翌2017年のクライマックスシリーズでは3位ながら、阪神・広島を下して日本シリーズに出場するもソフトバンクに2勝4敗で敗れた。その後、2023年のセ・パ交流戦では、ソフトバンク・巨人・オリックスと共に同率首位となったが、規定によりTQB(トータル・クオリティー・バランス、1イニングあたりの得点率と失点率の差)が一番高かったDeNAが1位とされ、交流戦初優勝を決めた。そして、2024年は7月末から8月初めにかけての9連敗の影響で一時低迷したものの、9月に巻き返したことにより3位でクライマックスシリーズに出場、阪神・巨人を下して日本シリーズにおいて再びソフトバンクと対戦する。横浜スタジアムで始まった日本シリーズは最初2連敗したものの、みずほPayPayドーム福岡で3連勝して巻き返し、雨天中止によって11月3日に横浜スタジアムにおいて開かれた第6戦でソフトバンクに2-11で勝利して、1998年以来26年ぶりの日本一を果たした。
「暗黒時代」突入の原因
フロント
2002年のドラフトでは球団は東海大学の久保裕也の獲得に動いていた。久保もベイスターズ入りを希望しており、球団はドラフトの自由枠での獲得を約束していた。しかし球団首脳陣はドラフト直前に一方的に約束を反故にして、多田野数人の指名に方向転換(実際は多田野のアダルトビデオ出演疑惑で入団ならず)。結局久保は巨人に入団し、担当スカウトで東海大学とつながりが深かった長谷川国利も退団した。当時東海大学の総監督で、長谷川スカウトの師匠的立場だった原貢はこの行為に激怒し、ベイスターズに対して今後はドラフト対象選手を新卒入団させないことを決めた。社会人野球を経た選手では、荒波翔がトヨタ自動車硬式野球部を経て2011年に入団している。
DeNAの経営となって以降は、2012年にオープン戦を開催するなど東海大学との関係を修復した。原の没後の2016年には巨人を戦力外となった久保を獲得し、2017年には北海道キャンパスの水野滉也を獲得している。
2003年、2004年はチーム生え抜きである山下大輔がチームを率いていた。しかし2年連続で最下位となり、続投するのか辞任するのか話し合いが持たれるはずだった。ところが新聞に「ベイスターズ来季監督は牛島和彦」という記事が載り、山下は自分が退任となる事実を知る。会見に同席したのは一軍マネージャーだけで、球団からの説明は全くなかった。
その一方では、村上忠則や山中正竹などアマチュア野球の有力者をフロントやスカウトに招いた。補強では成果を残せなかった一方、プロアマの関係改善には貢献した。
選手のモチベーションの低下による出来事
2011年に楽天からトレードで加入した渡辺直人は、『日刊ゲンダイ』の取材に対し「これからキャンプをやっていけば、いろいろわかってくるんじゃないかと思う。でも、サッカーをやるのはおかしいよ」と述べたことがある。これは、選手がグラウンドで本業であるはずの野球ではなく、サッカーをしていたというものである。
また2009年に打撃コーチを務めていた駒田徳広によると、同年、ある選手が監督室に入り込んで、試合中にもかかわらずテレビを見ていた。この時は当時守備走塁コーチであった波留敏夫が激怒して、その選手に注意している。その選手は怪我をしているにもかかわらず、FA権取得のため、日数稼ぎのためだけにベンチに居座っていたという。
脚注
注釈
出典
関連項目
- 横浜DeNAベイスターズ及びその前身球団の年度別成績一覧
- 暗黒時代(阪神タイガース)




