平 惟範(たいら の これのり)は、平安時代前期の公卿。桓武平氏、大納言・平高棟(高棟王)の三男。官位は従三位・中納言。

経歴

貞観16年(874年)三世王の蔭位により従五位下に直叙され、蔵人に任ぜられて清和天皇の退位までの3年間天皇の身近に仕える。翌貞観17年(875年)皇太后宮権亮にも任ぜられ、以降清和・陽成・光孝・宇多四朝の30年近くの長きに亘って、清和天皇の母である皇太后・藤原明子にも仕えた。この間、元慶元年(877年)従五位上、元慶4年(880年)正五位下、仁和2年(886年)従四位下、寛平6年(894年)従四位上と順調に昇進する。また、仁和4年(888年)には前年即位したばかりながら、天皇親政に意欲を見せる宇多天皇の要請を受けて、封事七ヶ条を奏上している。

醍醐朝の延喜2年(902年)参議に任ぜられ公卿に列す。議政官として大蔵卿・左兵衛督を兼帯し、この間の延喜4年(904年)正四位下に昇叙されている。延喜8年(908年)従三位・中納言に叙任され、翌延喜9年(909年)右近衛大将を兼ねるが、同年9月18日薨去。享年55。最終官位は中納言従三位右近衛大将。

人物

学識に優れ、醍醐天皇の命により貞観から延喜年間までの詔勅類をまとめた『延喜格』の編纂に参画した。

漢詩にも通じ、宇多朝の仁和4年(888年)に画師・巨勢金岡が御所の障子に当代の優れた漢詩人を描いた際、惟範もそのひとりに選ばれている。また、翌寛平元年(889年)に行われた残菊宴で詠んだ漢詩作品が伝わっている。

官歴

注記のないものは『日本三代実録』による。

  • 貞観16年(874年) 正月23日:従五位下(直叙)。12月6日:蔵人
  • 貞観17年(875年) 8月15日:皇太后宮権亮(皇太后・藤原明子)
  • 元慶元年(877年) 11月21日:従五位上
  • 元慶3年(879年) 2月15日:兼備後権介
  • 元慶4年(880年) 正月11日:兼備前権介。4月15日:正五位下
  • 元慶6年(882年) 正月7日:太皇太后宮権亮(皇太后・藤原明子が太皇太后になる)
  • 仁和2年(886年) 正月7日:従四位下
  • 仁和3年(887年) 2月17日:兼民部大輔。5月13日:兼弾正大弼、太皇太后宮権亮如元
  • 仁和5年(889年) 4月13日:聴雑色袍
  • 寛平2年(890年) 正月18日:兼式部大輔
  • 寛平5年(893年) 3月15日:兼肥後権守
  • 寛平6年(894年) 正月7日:従四位上
  • 寛平9年(897年) 5月25日:大蔵卿。6月19日:兼太皇太后宮権大夫(太皇太后・藤原明子)
  • 延喜2年(902年) 正月26日:参議、大蔵卿如元
  • 延喜3年(903年) 2月16日:兼播磨権守
  • 延喜4年(904年) 正月7日:正四位下
  • 延喜6年(906年) 正月11日:兼播磨権守
  • 延喜7年(907年) 正月13日:兼左兵衛督、去大蔵卿・播磨権守
  • 延喜8年(908年) 正月16日:従三位、中納言。3月5日:兼検非違使別当。8月26/28日:兼民部卿、去検非違使別当左兵衛督
  • 延喜9年(909年) 4月22日:兼右近衛大将、去民部卿。9月18日:薨去(中納言従三位右近衛大将)

系譜

  • 父:平高棟
  • 母:藤原有子(藤原長良の娘)
  • 妻:人康親王の娘
    • 男子:平時望(877-938)
    • 男子:平伊望(881-939)

脚注

参考文献

  • 武田祐吉、佐藤謙三訳『読み下し 日本三代実録』(上下巻)戎光祥出版、2009年
  • 『公卿補任 第一篇』吉川弘文館、1982年
  • 『朝日日本歴史人物事典』朝日新聞社、1994年

平泽唯 高清图片,堆糖,美图壁纸兴趣社区

网代慎平 堆糖,美图壁纸兴趣社区

年轻人为什么容易“躺平摆烂”,俞敏洪说出实情_理想_事情_能力

清 恽寿平 花卉图冊(六幅) 纳尔逊国画超高清大图原图扫描真迹全图书画图片下载

平泽唯 堆糖,美图壁纸兴趣社区